ぼくがHOPESに入塾したのは5年生の冬です。他の塾にも通っていましたが、成績が下がったから家族でHOPESに行くことを決めました。
最初は全くついていけず、たくさん怒られました。それでぼくは、怒られないように家のコピー機の前で前にやった単元を復習することにしました。しかし、前にやったばかりのことでも忘れていて、大分不安になりました。
あっという間に、夏が来ていました。夏はもう一つの塾とHOPESの両立がとても大変でした。もう一つの塾では、朝から自習、それから夜まで授業。残りの時間も自習でした。そんな毎日が続く中、塾が休みの日にHOPESに通いました。
そんな夏もあっという間に終わりました。夏の終わりに般若先生から「夏が始まる前と今で何が変わったか」と聞かれ、勉強の時間が増えたと答えました。
秋も思っていたより時間が過ぎるのが早く、気がつけば前受けの日が来ていました。
とても緊張していて、般若先生の姿を見たら安心して涙が出てしまいました。前受けを受けて正解だったと思いました。
いよいよ統一入試の日を迎えました。
初日の午前は第一志望の学校を受験し、午後に第二志望の学校を受験しました。その日の朝に般若先生から電話があり、緊張をほぐしてもらいました。午後の受験は思っていたより難しかったです。
次の日に、もう一度第二志望の学校を午前午後と2回受けました。その日の晩に、第一志望の学校が不合格だったことを知りました。ものすごく悔しかったのを覚えています。
次の日、再度第一志望校の後期試験に挑戦。校門の前には般若先生がいて下さりました。印象深く今でも心に残っています。しかし、結果は不合格。本当に悔しかったです。
第二志望の学校は合格していたので、嬉しかったです。
春からは今回の悔しさをバネに、中学高校の生活をがんばっていきます。
私は、一年生の時に一年間ほどHOPESのアルゴに入っていました。その時は頭の体操かつお遊びと考えていて受験のことなど一切考えていませんでした。
その後、囲碁に通うようになりアルゴをやめ、三年生からは浜のテキスト類を使って算数と理科を学習していきました。そのうち、三年生の終わりに周りの男子たちが灘を志望校としていくので、私も日本で一番の学校に行きたいと考え、桜蔭中学を志望校にしました。
桜蔭に行きたいと母に伝えると、関東の塾である早稲田アカデミーのオンライン生になりました。早稲田アカデミーでは算数ができた方だったので、校舎長に認めてもらえるようになりました。早稲田アカデミーに入ってしばらくは一番最上位のSS1で算数を鍛えていました。
しかし、私が算数を得意としていたのは貯金のように積み重ねてきたそれまでの時間の結晶のおかげであったため、皆が必死に宿題や予習をこなしていき解き方やひらめき方を身につけていくうちに私はSS2に落ち、五年の5月にはSS3まで落ちそうになりました。
そのとき、母は早稲田アカデミーをやめて中学受験をやめさせようとしました。けれども私は、今までの時間が非常にもったいなく感じられ、やるせなくなったので、母に通信制でも学べる四谷大塚に入らせてほしいと乞いました。皆と同じ学習範囲にはせめてついていきたかったのです。
こうして四谷大塚進学くらぶで半年ほど学習していく中で、小学校の先輩がSAPIXという塾で海陽中学の特給に合格したと自慢してきたことと、他の先輩もSAPIXで四天王寺医志に合格したと聞き、私もやっぱり通塾したいと母に懇願しました。すると母に熱意が通じたのかすんなり受け入れてくれ、新六年からSAPIXで受験勉強を再開する事になったのです。
SAPIXでは、ただもらったテキストで授業と宿題と復習をこなしていき、夏季と冬季はそれぞれの特訓で東京に行ったりもしました。
HOPESで般若先生に教わるようになったのはその頃でした。SAPIXで気づいたことは、国語を強化しても安定しないし、説明文などが出ると太刀打ちできなくなってしまう。だから4教科中でいちばん磨けるのは算数だと。HOPESで私は般若先生のプリントと過去問やSAPIXのテキストで分からなかったところを指導してもらい、さらには理科までも教えてもらえました。ラストスパートまで算数を最大限学べて、自分の中の算数の力がとてもレベルアップしました。
そして迎えた初戦。四天王寺中学校医志コースを受験しました。学校に入る途中まで般若先生がついてきて下さり、心強かったです。これまで全く志望校別対策問題集や過去問も解いたことがない状態での受験でしたが、無事に合格できました。第一志望校ではなかったので、気楽に緊張せずに問題が解けたのだと思います。
次に迎えた受験は、渋谷教育学園幕張中学校(渋幕)でした。渋渋の方が簡単で滑り止めとしてその方がいいと言われていたのですが、過去問を解いてみて出題が私には合わないと感じたため、第二志望校を渋幕に変更しました。
渋幕は、四天王寺に比べ校舎が大きく綺麗で、制服を着た試験監督の先輩方がなんとも賢そうに見えました。普通なら四天王寺合格で浮かれているはずでしたが、私は必死で他に何も考えず全集中し、そのおかげで合格できました。その時の喜びはなんと大きかったことか。母は号泣し、私は渋幕の偏差値を合格してから知り(桜蔭より1上だったので)踊りまくる。それほど嬉しかったのです。
渋幕に合格した事によって他の学校(東京農大とお茶の水)を受験しなくてよくなった私は、最終戦として桜蔭の試験に臨みました。その時にも般若先生は来て下さいました。もちろん全力を出し切ったのですが、算数が難しすぎて頭がショートしかけたのと、国語がちんぷんかんぷんで記述だらけの問題は、もう地獄でした。理科は例年と比べれば普通の難易度で、社会は思っていたよりと解けたと思います。
一番酷かったのは面接でした。試験が終わり、お昼ご飯を食べ、面接を受けるため、私は近い番号の人たちと共にある教室に通されました。そこには二つの机があり、向かい側にも同じようにやってきた受験者がいました。そして机の奥に審査する先生たちが3人ほどいて、手前に人数分のカードがありそこに問題が書いてありました。他の人が次々に質問に答えていく中で私は、『自分の故郷のいちばん良い所を答えよ』という問題を考え考え、私が言ったのは「空気が綺麗」という回答でした。いや、緊張と元からのアホさで、東京に来た時に思った空気汚いなと感じたことから、大阪は空気が綺麗と考えたのですが、今思えば本当にバカだったと思います。
こうして、四天王寺医志合格・渋幕合格・桜蔭不合格という結果となり、私の受験は幕を閉じました。