ぼくは、5年生の春ごろにHOPESに入りました。初めは授業についていけなくて、先生の話もちんぷんかんぷんでした。当然、宿題をきちんとこなせるはずもなく、授業のやり直しだけで手いっぱい。さらに、夏ごろまでは4年生の算数の授業も受けていました。
それでも、慣れてくるとなんとかついていくことができるようになりました。しかし、社会を苦手にしてしまい、復習テストでも返ってくるのは目をおおいたくなるような点数ばかり。それなのに社会をやらずに放っておいたため、ますます苦手になってしまいました。
そうこうしているうちに6年生になりました。宿題の量がかなり増え、般若先生がきびしくなった以外(大きな違いですが)あまり変わりはありませんでした。いつも通り。ぼくもいつも通り宿題をしていたつもりでした。でも、いつも通りではだめでした。前にも述べた通り、宿題は増えていたのです。また宿題がこなせなくなりました。般若先生にかなりきつくおこられました。
「自分はやらんでもできると思って、思い上がっている。たいしてできもせんくせに」
「わしは頭がよくても努力せんやつはきらいなんじゃ」
「ぼくは、はっきりいって君のような口先だけの人はきらいです」
「そんなぶったるんだ態度で受験しても受かるわけがない。お前が泣いている所でわしは思いきり笑ってやるわ」
などなど、いろいろ言われました。こんな塾やめたい、と何度も思いましたが、先生に認めてもらおうとがんばりました。実際に受験をしてみて、般若先生の言っていたことは正しかったと思いました。確かに甘い気持ちで受験していたらよい結果は得られなかったでしょう。
最後になりましたが、先生ならびにスタッフの方々、そして家族のみんな、本当にありがとうございました。
僕は、みんなに遅れて6年生の6月に入塾しました。だから、その遅れた分頑張ろうと思いました。
算数は図形ぐらいしかできなくて、文章題がきらいでした。それなのに、好きになろうとはせずに逃げてばかりだったので、状況は変わりませんでした。今になって「もっとやっとけば良かった」と後悔しています。理科は、暗記分野は好きだったけど力学が苦手でした。小島先生の「これだけはおさえておこう」を見ていると意味がわかってきて、少し力学が好きになりました。理科の勉強で心がけたことは、「なぜそうなるのか」と考えることでした。意味がわからないのに覚えようとしても、すぐに忘れてしまうからです。社会の授業はいつも僕と女の子2人だけで受けていました。入試の直前に年表を必ず見ておくことが重要だと思いました。
実は、僕は般若先生がこわくて、はっきり言って先生に宿題を見せに行くことがいやでいやでしかたがありませんでした。でも、明星中学の入試当日の朝に「ギュッ」と抱きしめてくれた先生の顔はまるで般若の面をはずした仏様のようでした。おかげできん張が解けて安心に変わりました。
試験会場に入ると、みんなが賢そうに見えてビビりましたが、逆に周りからも僕のことが賢そうに見えているだろうと思ってプレッシャーを解きました。理科の問題では力学がたくさん出ていてあせりましたが、暗記分野の問題を解いてからもう一度考えてみると、分かる問題もありました。小島先生の「これだけはおさえておこう」のおかげだと思います。社会のテストも、先生の言葉を思い出せたので、地理はできました。また、入試直前に見ていた歴史の年表が頭に入っていて、歴史もできた自信があります。
僕は、4,5年のとき大手の塾に通っていたけれど、HOPESのようにできないところを補うために、下の学年の授業を受けさせてくれることはありませんでした。HOPESは自分の弱点を見つけてくれるので良い塾だと思います。
算数をサポートしてくれた般若先生、なんでも教えてくれ、力学好きにしてくれた小島先生、きびしかったけど一人一人の答案を見てまわってくれた長野先生、御指導ありがとうございました。
僕は4年生のときにHOPESに入りました。
それまでは塾に行ったことがなかったので、授業がどれだけ難しいか分かっていませんでした。
「ま、ふつうにやればいっか」
と思ってふつうにしていると、プリントはまっ赤。宿題プリントなんて、丸が3つあれば良い方でした。しかし何も分かっていなかった僕は、赤にそまったプリントを先生に見せに行き、「アホかー。マジメにやれ」
と言われました。でも自分では、マジメにやっているのです。なぜ怒られたのか分からないまま、次もその次も赤いプリントを持って行きました。そのまま怒られつづけて、冬ごろ母に「HOPESやめたい。先生こわいし、何したらエエかわからんし」
と泣き言を言い、他の塾を見に行きました。しかしそこの塾長に
「明星以下の中学は受験ではない!」
と言われ、「悪かったなぁ明星より下で…」
などと思いながら、ここをあきらめ向こうをあきらめなどしているうちに5年生になりました。
「あーもう。ここまで来たらやらなしゃーない」
と思い、がんばってHOPESに通うことにしました。しばらくして、ようやくコツをつかみ、赤プリントからの脱出に成功しました。よし、と思ったのもつかの間。頭が良いのか悪いのか、
「×だらけじゃなかったらいいねんから、答え写したらエエんちゃうん」
と思いました。しかしそれを実行すると、さすが先生。すぐに見やぶられ、すごく怒られました。僕がこんなことを書いてるからって、かしこいみなさんはもちろんマネしないでね。なんとか自力でついていける(?)ようになったものの、次のかべは「睡眠時間」。勉強であまり眠れていない上、HOPESの授業は夜にあるので、授業中にコックリコックリ。また怒られる原因を作ってしまいました。
しかしそのかべは学校の休み時間や移動中などに眠ることで回避できました。先生なら
「よかったニャー」
とおっしゃるところでしょう。いくつかのかべをのりこえ、僕は第一志望の冨士中学に合格することができました。みなさんもこれから、いろんなかべがまちうけていることでしょう。しかし、一つ一つ確実にのりこえていってください。そして、自分の願いがかなった暁には、思いきり喜んで、自分をこれまでささえてくれた方たちに思いっきり感謝して下さい。
Try hard, and smile at last.
僕は2年生の2月にHOPESに入塾しました。それから5年生の夏ごろまでは、4年生の入試完成をやっていなくて帰らされたとき以外、ほとんどプリントと本の宿題をこなせていました。5年生の5月ごろ、復習がいい加減だったことに気がつき、それからは全ての問題を復習するようにしました。しばらくすると小テストの点数が前よりもよくなりました。しかしその一方で、5年生の夏の中ごろから国語の問題集をやらなくなっていました。他の教科の問題集も、冬休みごろからはやらなくなっていました。結局、算数の復習、宿題に時間をかけすぎていたのです。
6年生になって、入試まで1年足らずとなっても、本の宿題をやる週よりもやらない週の方が多くなっていました。結局、その状態が続いたまま夏休みになりました。しかし夏休みには、2日連続や3日連続で同じ教科の授業を受けることがあるので、問題集をする時間がとれなくなってしまいました。結局、そんな状況のまま、年が明け、入試が間近になりました。そのころは、毎日志望校の過去問をやっていました。初めは赤本をやっていたのですが、実際の入試と同じ形式のものの方がいいということで、父が書店で買ってきてくれました。それをやったことによって、本番でも落ちついて受験することができました。それに、先生方が当日に応援に来て下さったので、さらに落ちついて受験できました。試験当日の会場は、普段の模試などとはちがいます。黄色の軍団や青、緑、赤などの色々な軍団がいましたが、全く気になりませんでした。
先生方、スタッフの皆様、4年間ありがとうございました。
ぼくは、4年生のころからHOPESに通いはじめました。入ったばかりのころは、割り算の筆算のやり方も覚えていなかったので、算数の問題はほとんど解くことができませんでした。けれど般若先生は、
「早く筆算のやり方を覚えられるように頑張って練習しようね」
と、優しく言って下さいました。とてもうれしかったです。家に帰るとすぐに練習をしました。
そのころは受験のことなんて全く考えておらず、行きたい学校もまだ見つかっていませんでした。苦手だった算数の授業のときは、先生が黒板に書き出すとそれに合わせて答えを書いていたのであまり考えることをしませんでした。また復習でもちゃんと理解できていなかったので、4年生の途中からみんなができている問題が一人だけできず、恥ずかしくなったり、ときにはくやしくて泣きかけたりしたこともありました。だから、問題にとりかかってから先生が答えを書くまでの時間いっぱいに問題を考えることを心がけました。
5年生になると、4年生のときより正解する問題数が増え、やったことのない問題でも考えてみるとわかったり、計算のスピードが速くなったりしました。算数が少し好きになったような気がしました。また復習テストでは算数が5位や6位ぐらいになることもありました。でも、そのころ国語の問題集にあまり手をつけなかったので、前まで70点以上とれていた復習テストもだんだん点数が下がっていきました。しかしその原因を深く考えなかったので、成績はのびませんでした。そして、このまま国語の点数が変わらなければ志望校に入ることはかなり難しいということがわかりました。それからは授業になるべく集中して答えをさがしました。その結果、記述問題は前よりもいい文が書けるようになったし、漢字と語句の小テストも40点(50点満点)以上とれるようになりました。
そして6年生の後半からは、今まで以上に合格したいと思うようになりました。算数の図形問題集もきちんとやりました。国語の問題集をサボっていたために点数がとれていなかったので、先生に「読解の問題をやれ」と言われ、ショート通信にもきびしく書かれました。ぼくは、問題集のまだやっていないところをさがしてそれをやっていきました。また、算数の小問で、間違えてはならないものなのにできていないことがありました。そこで次はまちがえないようにしようと思い、わからなかったら質問をして、解説を読んでわかるところはやり直しをしました。
中学入試まであと少しになったとき、もし落ちたらということを想像して必死に勉強しました。過去問のプリントを全てやり、そのやり直しも完ぺきにやっていきました。国語も文章を理解しながら解きました。理科も総復習の問題をやりました。ぼくは心の中で「もうこれだけやれば大丈夫」と思いました。
試験当日、緊張して朝5時に目が覚めました。朝食もなかなか入らなかったので、のどにおしこんで家を出ました。行くときはとても緊張していました。学校の前で先生が待っていて下さり、とてもほっとしました。会場に入るとき、先生からゆず味ののどあめをもらいました。おかげで少し心配していた国語もおちついて解くことができました。帰るときはくたくたでした。
合格発表のときも、ガチガチに緊張しました。自分の番号が見つかったときはうれしくてたまりませんでした。
ぼくは、HOPESに通っていてよかったと今でも思っています。それは、先生方が一人一人に心配して下さり、そのうえ、授業がとても楽しかったからです。
志望校に合格できたのは、先生方、スタッフのみなさん、お父さん、お母さんのおかげです。本当にありがとうございました。
私は4年生の初めの頃にHOPESにきました。最初はみんなと話せず、授業も難しい事ばかりで、頭がついていけなくてしんどかったです。けれどある日、1人の女の子が話しかけてきてくれたので、それまでの心細さはなくなりました。だんだんと授業にも慣れて、HOPESに行くのが次第に楽しみになっていきました。
私は社会が苦手で、算数や国語の宿題ばかり先にして、ずっと社会を後回しにしていました。そのため社会の成績は下がりっぱなし、最悪でした。特に地理や歴史には苦労しました。歴史は江戸時代までの事は少しずつ覚えられたけど、明治以降はなかなか覚えられなくて、6年生になってからやっと勉強していきました。
入学試験では社会のない型で受験しましたが、中学に入ってから役立つ事があるので、勉強していてよかったと思います。
算数はN進法やニュートン算などの文章題が苦手で、同じ問題を何回もまちがえていました。
国語は漢字がなかなか覚えられませんでした。
理科は生物が好きで、生物の話になるとはりきる一方、「てこ」や「濃度」になるとテンションが下がっていきました。
そんな中、ずっと先生方に支えていただき、いろいろな問題点などを指摘してもらいながら、過去問を解いていきました。
いよいよ入試本番!!最初に受けた学校は冨士中学校でした。初めてだったので少し緊張はしたけど、友達も一緒に受けていたので、それほど焦りはしませんでした。結果は合格でしたが、第一志望がまだだったので、あまり浮かれないようにして、帝塚山中学校の受験を迎えました。
1次も2次Aもぎりぎり合格だったので、2次Bでは「大丈夫かな?」という不安もありました。2次Bの算数は授業で出ていた問題があってできがよかったけど、国語は最悪でした。
最後になりましたが、この3年間私を支えてくださったスタッフのみなさま、先生方、本当にありがとうございました。
6年生の7月、私はHOPESに入塾しました。体験授業の時、初めて見る人や先生ばかりで、落ち着いて受けることができなかったことを覚えています。プリントはまっ赤。頭の中は真っ白。一つも赤色のまるを見ることのできなかった算数の授業。知らないことだらけで不安になりました。「赤色のまるでプリントがいっぱいになる日がきますように…」そう願いながら入塾しました。これが地獄への入り口だと知らずに。
HOPESへ行く度に怒られていたような気がします。何よりも般若先生の声が嫌いでした。聞くだけで、すごい痛みが頭の中をかけぬけました。宿題も間に合わず、授業もおくれ、人より優れた面を何も持たない私は、ただ一つ、涙をこぼす回数は誰にも負けていなかったでしょう。
しかし、受験に近づくにつれ、解ける問題がほんの少しずつですが、増えていきました。それがやる気に変わっていきました。
1月8日、冨士中学校の入試。前日は早く寝ましたが、とてもきん張しました。でも、会場にHOPESの仲間がいて、自然と笑顔になれました。合格している自信は十分あったので、家に帰ってからも不安にはなりませんでした。しかし、疲れてしまいずっと寝てました。結果は合格。少し安心しました。
本命の四天王寺中学校の入試。知っている人がいなかったので、こわかったです。先生からもらったお守りをにぎりしめ、懸命に祈り、試験に臨みました。結果は合格。通知が届き、合格という文字を見た時、笑いがこみあげてきました。今までにないほどの喜びを味わうことができました。先生に合格を伝えるために電話をした時の般若先生の声は天使のようでした。
最後になりましたが、先生方、お父さん、お母さん、本当にありがとうございました。
私はHOPESに4年生で入塾しました。初めて授業のとき、とても緊張したのを覚えています。最初は割と成績が良く、授業のペースにもついていけ、先生の話も面白かったので、とても楽しかったです。しかし、5年生になると、どんどん成績が落ちていき、このまま授業についていけるのか、とても不安になりました。また、算数のテストのできが悪くて、お母さんに毎回おこられていました。5年生の終わりごろには、「成績優秀者」の表にあまり名前が載らなくなっていました。このころから、中学入試を少しずつ意識するようになりました。
そして、とうとう受験生になりました。国語、理科、社会は悪くはなかったのですが、表現することも難しいほど、算数の成績がひどかったのです。さらに宿題の量が増え、内容も難しくなり、授業のペースにもついていけなくなりました。算数のプリントは間違いだらけで、とてもくやしかったです。4年生で使った問題集をもう一度解き直してもあまり効果はありませんでした。夏頃は、とてもあせっていました。できるだけ自習室に通って勉強しました。けど、どんなにがんばっても算数の成績は上がらず、「4年生の頃、もっと勉強していればよかった」と、何度も後悔しました。しかし後悔ばかりしても何も変わりません。成績は落ちていきました。合格判定テストの判定もAからBにおち、「志望校を下げたほうがいいかなぁ」と、何度も思いました。ずっと宿題とプリントしかやっていなかったので、過去問をこなすペースが他の人よりもおそく、赤本にある6年分を解くのがやっとでした。
やがて、試験の日を迎えました。初めて受けた中学校は土佐塾中学校です。先生が、練習みたいなものだと言ってくれたので、あまり緊張はしませんでした。実戦演習をしているように感じました。問題もそれほど難しくなく、結果は合格でした。
次は第一志望校の清風南海中学校です。少し日があいていたので、その間に過去問をできるだけ解きました。ついにその日が来ました。試験は、国語、算数、理科、社会の順番でした。国語は、まず最後の漢字を書いてから、問題を解きました。すると時間が少し余ったので、ミスがないかどうか、くりかえし見直しました。問題は算数です。解答用紙の左側はすべて解けたけれど、右側のグラフ問題が難しくて手こずり、時間がなくなってとてもあせりました。一応全て解いたけれど、ミスがあるんじゃないかと不安でたまりませんでした。なので、理科と社会で点をとらないといけないと、必死に解きました。試験が終わっても、結果が気になってたまらず、おかげでその日は眠れなかったです。次の日は帝塚山中学校です。試験中、ずっと清風南海中の結果が気になっていたけど、時間配分に注意して解きました。試験が終わるとすぐに、清風南海中の結果を見にいきました。電車の中では、おちているんじゃないかと不安でした。掲示板の前に立って自分の番号を探しました。スーパー特進の方に自分の番号があったので、思わず飛び上がってガッツポーズをしました。とにかくうれしかったです。帰るとすぐにHOPESに合格したことと、このまま受験を続けることを連絡しました。そして、奈良学園中学校、金蘭千里中学校を受け、全て合格しました。やっぱり努力をすれば良い結果が返ってくるということを、改めて実感しました。
最後になりましたが、私をここまで支えてくださった先生方やスタッフの皆さん、そしてお父さん、お母さん、本当にありがとうございました。
私は4年生からHOPESに入塾しました。姉が通っていたことと説明がわかりやすかったことからです。
4年生の頃は遊んでばかりだったので、いつも宿題が後回しになり、結構おそい時間まで勉強をしていました。その時は、先生に叱られるのが嫌だからと思っていたので、あまり成績はのびていなかったように思います。4教科の中では国語が特に好きで、一番最初にする宿題は必ず国語でした。成績も国語が一番よかったと思っています。
5年生に上がり、初めに般若先生から、5年生の勉強の大切さについて、おどしをかけられました。先生の目に強い念がこもっていたのでとても不安になったのを覚えています。4年生の時より宿題が増えて、あせりながらも後回しになんてできなくて、がんばってやりました。その頃、行きたい学校が決まりました。母が何度も口にしていた学校だったし、この学校なら勉強していけると思ったからです。合格判定テストでA判定だったのでうれしかったです。
6年生になり、宿題や授業時間が増えました。あせるというより、がんばらなければという気がしました。家に帰ってからも、算数のやり直しや毎日やる漢字、理科、計算を一生懸命しました。夏休みに入り、ますます忙しくなりました。この頃から、理科の宿題がたまり始めました。算数が難しく復習に時間がかかり、理科を後回しにしていたからでした。何度か小島先生に相談しました。それでもたまる一方でしたが、自習室にかかさず通うことで何とかしました。ですが、理科は算数よりも足を引っぱる教科と化していました。夏休みは信じられないほどあっという間に終わり、過去問を解く宿題が加わりました。母もピリピリしてきて、怒りっぽくなり、算数や理科の実戦テストが悪いとこっぴどく叱られました。過去問を解くペースがおそく、第一・第二志望までしか手をつけられず、質問も3校の内の2校だけしかできませんでした。ある時、理科の特別演習でここに書けないくらいひどい点数を取りました。力学が全滅で、かなり危ないと思いました。すぐに小島先生に相談し、補助プリントと宿題を基本のものにしぼりました。その時に使った「理科チェックシート」はとても役立ちました。おかげで、最後の理科の実戦演習で96点をとるまでになりました。算数も、般若先生のおかげで、少しだけ自信がつきました。
いよいよ入試前日。姉にアドバイスをもらい、準備をしてから寝ました。一番目は土佐塾中学校でした。結果は合格でうれしかったです。次は本命の清風南海中学校。かなり不安でした。会場には小島先生が来て下さいました。算数が心配だったので計算問題を持って行き、解いていました。力を出し切ることができたと思いましたが、結果が気になってその夜は眠れませんでした。合格はできましたが、志望していたスーパー特進ではなく特進コースでした。くやしくて、「何が足りなかったのか」と一日中考えていました。夕方、先生からの電話で泣きそうになりましたが、必死の思いでずっとこらえていました。まだ残りの試験があったので考えないようにしました。帝塚山中学校・金蘭千里中学校を受けて、最後に奈良学園中学校を受けました。国語の作文に少し苦戦しましたが、結果は全て合格でした。うれしさと共に全てが終わり、ホッとした気持ちになりました。清風南海中学校に進学することになりました。スーパー特進には入れなかったけれど、入学して特進コースから上がってみせたいのでこれからもがんばります。
HOPESにはとても感謝しています。先生方、本当に今までありがとうございました。
僕がHOPESに入塾したのは、小学2年生の3月のことでした。その時は、先生も優しくて授業も楽しかったので、塾に行くのが楽しみでした。3年生の頃は、成績もけっこう良く、学校の友達と遊んでいました。
4年生になると社会が増えましたが、社会はとても得意な教科でした。この頃もまだ、学校の友達とも遊んでいました。
5年生になると、宿題が多くなり、学校の友達と遊ぶ時間をけずりました。社会の成績が良かったので、この頃から4科目入試の中学校を意識するようになりました。
6年生になると、宿題がもっと多くなり、授業時間も増えたので、やらないプリントが出てきました。自分では最大限の努力をしたはずなのに、国語の成績が悪くなってきました。それで、夏休みにものすごく国語の勉強をしました。その結果、やっと国語も平均点はとれるようになりました。
このまま順調に第一志望校の東大寺学園中の入試を迎えました。全体的に難しかったのですが、社会はものすごくできているような気がしました。結果は合格でした。
最後に、先生方、スタッフのみなさん、今まで本当にありがとうございました。
ぼくは、4年生の半ば頃にHOPESに入塾しました。初めのうちは中学受験のことは考えてませんでした。5年生になってから、月一回あるテストでは、国社理はぎりぎり合格点でしたが、算数なんかもう論外で一回も合格点を超えたことがなかったのです。毎回のように親に怒鳴られて「次こそは」と思っても、合格点より一点低い点が今までの最高点でした。
6年生になり、今まで以上いや倍近い授業時間になってしまいました。クラスも志望校別に二クラスに分かれました。週に一回、実戦演習という授業が始まりました。それは、テストを受けたあとに先生の解説を聞きながら解き直す形式の授業です。そこでも80点以上とることなんて、雲をつかむような話でした。「実戦って自分の行くトコより上のレベルの問題をやって何の意味あんのやろ、やるんやったら行くトコの前後のレベルの問題を解けばいいやん」と先生に聞いたら、「少し上のレベルをやっていたら、多少難しい問題が出ても解けるやろ」と言われました。しかし、ぼくにとっては、算数・国語はもうハテナな問題ばかりでした。でも、社会はまあまあで、理科は算数や国語ほどではありませんでした。テストや入試って実力でするものだけど、ぼくの場合は分からんもんは運まかせと言うより、適当に答えをかいたときがあり(全教科)、それで正解した問題もありました。でも今にすれば、5年生の頃にもっと宿題ややり直しをきちんと(写したりせずに)しておけば、今みたいに後悔することはなかったと思います。
般若先生にはよく怒られました。宿題を忘れたときは、授業の後に残ってやらされたし、授業を受けさせてもらえないこともありました。「帰れ!!」とむちゃくちゃ怒鳴られたけど、ねばって帰らなかったこともありました。それでもぼくはさぼっていたので、結局志望校には行けず、附属中学校に上がりました。
中学からの新しい生活では、がんばろうと思います。
先生方、スタッフのみなさん、今までありがとうございました。
僕は3年生から星光学院中学校に行きたいと言っていたが、それほど意識はしていなかった。HOPESに通い始めたのは4年生の10月ごろからだ。毎日のんびり宿題をやり、楽しく過ごしていた。5年生になり、少し受験を意識し始めた。中ごろに成績が落ち、気合いの入らない状況が3ヵ月ほど続いたが、その後は状態がもどった。6年生に上がる進級テストで、初めて自分でその準備をした。満足のいく成績だった。これなら自分でやっていけると思った。
しかし、6年生になるときは嫌だった。ため息が出るほど宿題が多かった。できない量ではなかったのだけど、算数以外はあまりやらなかった。
春の講習では出された宿題を全てやり、自信を持って復習テストを受けたが、成績は変わらなかった。要領が悪かったのだと思う。
やりかたを変えないまま夏休み。その直前に応援大会があった。先輩方の言うことを真剣に聞いた。大事な夏の講習。今さらながら、理科と国語の読解をもっとやっていれば、と思う。理科までもが苦手になってしまった。まさに後悔先に立たず。だが、自習室に通っていたのは間違いではなかった。家とではできる量がケタ違いだ。自習室は絶対に利用した方が良い。その甲斐あってか、総仕上げテストの成績はとてもよかった。
秋になり、小学校では受験の話でもちきりだった。聞けば聞くほど不安になり、あせってきた。そのころから過去問をやり始めた。志望校も決めた。運動会の練習で毎日疲れはてたが、宿題はある。自分でも頑張ったと思う。授業のたびに先生が「大丈夫か?疲れてないか?」と聞いて下さった。必死の思いだった。
冬を迎えた。精一杯の力を出したつもりだ。自習室で頑張った。あとちょっとで受験やと思うと、どきどきしてきた。正月特訓も乗りきり、冬の講習は終わった。
1月9日、函館ラ・サール中学校の入試。先生全員が来て下さった。開始15分前に最後のアドバイスをもらい、テストに臨んだ。算数が全くできなかった。2日後の夕方。どきどきしながらパソコンで発表を見た。あ、僕だけ落ちてる・・・。連番受験だったからすぐわかった。落ちることなどないと思っていただけに、とてもショックだった。でも気持ちを切りかえ、愛光中学校の入試にそなえた。
入試前日、家族全員で四国へ。ホテルで愛光中の過去問の残りを全てやった。当日、般若先生が僕一人のために来てくれた。アドバイスをもらい、いざ出陣。会場に入る時、先生が大きな声で「がんばれよー」と言って下さった。いよいよ試験開始。国語、理科、社会はよくできた。が、休けい時間が長すぎて逆に不安だった。得意な算数は・・・。3日ほどしてレタックスが届いた。封筒は2つ。母が「2つあるということは、制服とかの代金が書いているものと合格か不合格かを書いているものだから合格やで、きっと」と言った。急いで封筒を開けると、なんと合格の文字が。うれしく飛び上がった。すぐに父と塾の先生に伝えた。
油断せずに第一志望の星光学院中の入試に臨んだ。般若先生が来て下さり、他の先生とは電話で話した。心臓が爆発しそうなくらい緊張した。どの教科も難しく、傾向が変わっているように感じた。過去問を11年分もやったのにと、とても落ち込んだ。
翌日は西大和学園中学校の入試を受けた。どの教科も難しかった。テストが終わり、「僕、星光落ちとった?」と聞くと、妹は小さくうなずいた。とても悔しかった。
最後は清風南海中学校の入試。どれもふつうにできたが、不安だった。他校を合格していたが、清風南海中に合格しなければ、愛光中に入学することに決めていたからだ。親元をはなれるのは辛い。発表は家族全員で行った。最初に自分で見つけた。「うわ、合格してる!」と母に言い、みんなで泣いた。とてもうれしかった。
最後に良い結果をおさめることができたのは先生方、スタッフの方々のおかげだ。断言できる。僕が通ったHOPESは素晴らしい所だと。そして何より、父、母、妹のおかげだ。父は迎えに来てくれ、母は励ましてくれ、妹は旅行やゲームをがまんしてくれた。本当に感謝している。
1日目の帝塚山中学校の入試では、これより前に冨士中学校の入試も経験していましたが、全然ちがう雰囲気で、とても緊張しました。教室に入った後も他のことを考えたり、塾で習ったことを思い出したりして気を紛らせていました。でも、冨士中学校の時も緊張していたけどうまくできたので、緊張しながらも何とかなるさと思っていました。問題の中には、苦手なものがあり大丈夫かなと思ったり、得意なものがあってよしと思ったり・・・。試験が終わり、家ですこしリラックスしてから明日の準備をしました。
2日目は開明中学校の入試でした。昨日のことを思い出すと、また緊張してしまいました。始まる前より、始まってからの方が緊張し、試験と試験の間は、トイレにいったりお茶を飲んだりしていました。試験が終わると、すぐに帝塚山中学校の結果を見に行きました。でもそこにはぼくの番号はありませんでした。家に帰った後も、そのことをひきずっていました。
3日目は桃山中学校の入試を受けました。この日は先生が応援に来られて、あめを下さり落ち着かせてくれました。けれど教室に入ると静かで、また緊張してしまいました。時間配分を間違えて時間が足りなくなり、あまりできませんでした。ああ、また失敗したかと後悔しました。
その後、開明中学校の発表を見に行ったら、番号がなくて落ち込んでしまいました。これから見に行く桃山中学校もだめかなと思い、半ばあきらめていました。でも、行ってみると自分の番号があったのです。最初に見たときはただの見間違えだと思い、もう一回見てもあったのでようやく合格できたのだと、とてもうれしかくなりました。家に帰ってから家族に合格を報告しました。
4日目は帝塚山中学校に再チャレンジ。1日目に受からなくて悔しかったのでもう一度挑戦することにしました。教室はこの前よりきれいで、落ち着くことができました。しかし、やっぱり緊張してしまい、またも時間配分を間違えてしまいました。次の日に結果を見に行きましたが、番号はありませんでした。
でも、一つでも合格したので、ぼくにはそれだけの実力があったんだということがわかり、うれしかったです。
5年生の7月、ぼくはHOPESに入塾しました。授業の前に宿題チェックがあり、持っていくのを忘れて、叱られたこともありました。うっかりいい加減な事をしてしまいがちなぼくのために、今思えば本当によく指導してくださったと思います。
実はHOPESに来る前は上本町にある大手塾に3年生の時から通っていました。最初は授業に身が入っていました。だんだん生徒数も増えて、塾へ通うことは楽しかったのですが、全てのことが中途半端に終わることが多くなりました。なぜならば、宿題を忘れても、大人数のため先生が気づかなくなり、単元ごとの習熟度を確認する手段が公開テストのみとなってしまったからです。そんなわけで、成績はどんどん下がっていきました。大手塾は下のクラスになればなるほど環境もどんどん悪くなっていきます。そのころ父と母は悩んでいたそうです。以前、母の知人に「少人数で面倒見が良く、本人の頑張り次第で東大寺、星光あたりにたたき込む塾がある」と教えてもらったことから、HOPESの体験授業を受け、ここで一からやり直そうと心に決めました。
実際に入塾してみると、厳しい宿題のチェック、容赦ない先生からのいきなりの質問。それに加えて、先生が第一志望校をあきらめるな、と常に励まして下さったことを覚えています。その頃は東大寺、星光を目指していました。最初のうちは授業のやり直しや宿題に時間がかかり、深夜の2時を過ぎることもありました。それも次第に慣れ、少しずつ短い時間でできるようになってきました。5年の冬頃になって、復習実力テストで得意科目では成績優秀者の表に載ることもありました。
6年になると、母があまりにも内部進学の勉強もしろとうるさいので、内部進学の勉強もせざるを得なくなってきました。内部進学の1回目のテストの一週間前からHOPESも休んで勉強しましたが、結果は散々なC判定となってしまいました。塾の勉強と内部進学の勉強をしていたために、だんだん塾のテストも点が取れなくなってきました。
そして夏休み。この一ヵ月が勝負だと思って、塾の勉強と内部進学の勉強を両方とも頑張りました。時には、MYDOノートに何も書いていない日があったため、「おまえ、何しとったんや!」と叱られたこともありました。MYDOノートには、内部進学の勉強をしていましたとは書けなかったのです。
夏休みが明け、内部進学の2回目のテスト。結果はB判定。このままでは内部進学はほぼ不合格。二学期からは、外部の志望校の過去問もやり始めました。HOPESで習っていたことがあり、合格圏内の点数がとれるようになってきました。
そして内部進学の3回目のテスト。いつもやっている外部の勉強と同じような問題が出たので簡単でした。しかも早くできたため見直しをすることも出来ました。手応えは十分でした。もともと外部希望だったので、不合格でも次があるという気持ちで試験に臨んだことが、緊張もせずにリラックスして自分の力が出せたのだろうと思います。そして10日後、結果通知が来ました。封筒を開けると合格の文字が。よし!と言う気持ちと、外部の中学校が受けられないという残念な気持ちとが入り交じった、複雑な心境でした。
3回目のテストで大逆転して合格できたのは、HOPESで熱血指導をして下さった先生方のおかげだと思います。
私が初めてHOPESへ行ったのは、兄を迎えに入ったついでに上がった時だと思います。それから、何度も上に遊びに行き、事務所にいらっしゃる先生方といろんなことをしていました。兄の試験が終わると、今度は私が新3年として塾生となる時がやってきました。その頃のことはあまり記憶に残っていませんが、3年の時にすでに志望校が『神戸女学院』であることは決まっていました。しかし習い事が多く忙しかったので、算数だけしか授業を受けませんでした。そのおかげで算数が得意になりました。
4年のこともあまり覚えていませんが、夏休み頃から自分のわがままで荒れた性格が出てきたことは何となく覚えています。その性格は6年になるまで続いていました。5年では自分なりに一生懸命勉強できたと思います。
6年になると、学校でも受験、受験と言われ、周りの友達で辛そうにしている人が多くなってきました。でも私は、前よりも落ち着いていて成績も安定してきている、と学校の先生や親から言われるようになりました。しかし、この頃から国語が足を引っぱっているように感じられ、般若先生に相談しました。他塾の国語強化講座を受けるなどし、国語の成績もだいぶ安定しました。夏休み前に臨海学舎があって、勉強するのが嫌になり、大変でした。しかし、少しずつ元のペースに戻していくと、夏休みには完全にいつも通りにやれていました。夏休みは本気でしっかりやろうと決めていたので、自分の精一杯を尽くしていきました。他塾の神女オープン模試では、今までよりも順位が上がっていたので安心しました。
秋になると、体育大会の練習が始まって、疲労がたまり、とてもしんどくなりました。でも授業中はしっかり先生の話に耳を傾け、集中して問題に取り組みました。冬になるとラストスパートをかけていきました。先生からのメールを読むたびに元気づけられました。
いよいよ神戸女学院の試験当日。学力考査では自分の実力を出し切りました。体育実技も態度に気をつけていたので満足のいく出来でした。私は岡山中、神戸女学院中、帝塚山中の三つの学校を受けましたが、どれも全く緊張せずに受けられました。合格するんだという気持ちが大きかったからかもしれません。
合否発表の日。その日は、家で待つのは辛いということで学校に行きました。帰る間際に合格通知を聞いたときは、嬉しさのあまりどっと涙があふれ出し、友達と教室で「やったー!」と叫んでいました。帝塚山中の算数の試験では満点が取れ、本当に満足のいく結果になりました。
このような結果を出せたのは生まれてからずっと私のことを見守ってくれた両親、私のわがままを理解して下さった般若先生をはじめとするHOPESの先生方、そしてスタッフの方々のおかげです。本当に感謝しています。ありがとうございました。
最後になりましたが、これから中学受験を迎える皆さん。HOPESは本当に良い塾です。だから先生方を信じて勉学に励んでください。そうすれば絶対に志望校に合格できます。私が言えることはこれぐらいしかありませんが、精一杯がんばって下さい。先生方もお体に気をつけて、これからもHOPESでいろんなことを教え続けてください。ありがとうございました。
ぼくは、4年生の始めに入塾しました。入塾した当時は、授業についていけるか不安でいっぱいでした。学校の勉強とぜんぜんちがってとても難しく感じました。そのころは、受験の意識など全くなく、サッカーや水泳などの習い事もしていました。
5年生になると、目標にする中学校が決まり、今まで以上にがんばりました。すると、あまり良くなかった成績も少しずつ上がっていきました。それでも、必要最低限の授業しかとっておらず、難関校向きの勉強はしていませんでした。また、得意だった算数や理科の勉強を中心にがんばりました。プリントは毎回必ずやり、問題集は残った時間でできるだけやりました。算数や理科や社会は成績が少しずつのびていきました。しかし、苦手だった国語の宿題をどうしても後回しにしてしまい、いい加減にしかできていませんでした。そのせいで国語の成績があまりのびませんでした。それが最終的には、受験にひびくなどとは全くそのころは思っていませんでした。母は、「遠回りかもしれないけど、本を読んだ方がいいと思うよ」と言って本を読むことをすすめてくれました。しかし、宿題をこなすので精いっぱいだったぼくは、本を読みませんでした。
そんな状態のまま6年生になりました。受験も近いということでサッカーと水泳の習い事をやめました。夏休み前に、いろいろな学校をもう一度見に行き、理系の勉強が進んでいる灘中学に行きたいと思いました。そこで般若先生に相談しました。すると先生は、「夏休みの間にどんだけがんばるかで変わってくるから、夏休みは一生懸命がんばりなさい」と言って下さいました。時間が少なかったので志望校の変更はもう無理だと思っていたのに、先生は温かく受け入れて下さいました。
夏休みは自習室に毎日行き、自分なりには精一杯がんばりました。その成果が出て、二学期最初のテストでは、見事一位を取ることができました。それからは、努力した分成績は上がるんだと思い、少しずつ自信もついてきました。しかし、それから受験までは学校の行事がたくさんあり、12月には体調をくずしてしまいました。それでもできるかぎりがんばりました。
最初の受験は何人かの友達といっしょだったし、先生も応援に来てくれたのであまり緊張しませんでした。手応えは十分にありました。結果は合格でした。そのときは、とてもうれしかったです。
とうとう灘中学の入試。自分一人だったのでとても緊張していました。しかし、般若先生の息子さんが先輩として応援に来てくれ、きん張がほぐれました。算数と理科は手応えがありましたが、国語は語い力がなかったせいであまりできませんでした。2日目の算数はとても難しく感じました。国語はミスをしてしまいました。結果は残念ながら不合格でした。やはり国語が足を引っぱりました。
東大寺学園中学の入試には、先生が全員応援に来てくれました。友達もいっしょだったのでリラックスして受けられました。結果は合格でした。ほっとし、やっと緊張がなくなりました。
この間に、うれしかったり悲しかったり、いろいろな思い出ができました。受験は、多くのことをぼくに教えてくれました。努力の大切さや世の中の厳しさ。人は一人ではやっていけず、いろいろな人の支えがあってこそ何でもできる、ということなど。
最後に、先生方、スタッフのみなさん、ぼくを支えてくれた家族のみなさん、今まで本当にありがとうございました。